障子という言葉は中国伝来ですが、「ふすま」は唐にも韓にも無く、日本人の命名です。「ふすま障子」が考案された当時は、御所の寝殿の中の寝所の間仕切りとして使用され始めました。寝所は「衾所(ふすまどころ)」といわれた。「衾」は元来「ふとん、寝具」の意である。このため、「衾所の衾障子」と言われた。さらには、ふすま障子の周囲を軟錦(ぜんきん)と称した幅広い縁を貼った形が、衾の形に相似していたところから衾障子と言われた、などの説があります。
「衾(きん)」をふすまと訓ませるのは、「臥す間(ふすま)」から来ていると想像される。いずれにしても「ふすま」の語源は「衾」であるという学説が正しいとされています。ついでながら、襖の周囲に縁取りとして使用した軟錦は、もとは簾や几帳に、縁取りや装飾として使用された、帯状の絹裂地のことです。寝殿造で多用された簡易間仕切りの衝立てにも縁取りとして軟錦は使用され、また畳の繧繝縁(うげんべり)などの縁取にも使用されています。几帳は、台に二本の柱を立て上に横木を渡して、絹綾織りの帳 とばりを掛けたもので、主として女性の座する空間の間仕切りとして、使用されていました。帳は絹布を軟錦の縁取りでつなぎ合わせて、軟錦の上からさらに軟錦の帯を飾りとして重ねて垂らし、裾は長く流して十二単衣の裾のような風情をつくり出していました。
「襖」は衣服のあわせや綿いれの意で、両面が絹裂地張りであったことから「ふすま」の表記に使用されました。襖の原初の形態は、板状の衝立ての両面に絹裂地を張りつけたものであったと考えられています。この衝立てを改良して、框かまちに縦桟横桟を組み、両面から絹布などを貼って軽量化を図ったのです。この軽量化された衝立てを改良発展して、張り付け壁(副障子)や屏風にも応用していったと思われます。むろん、張りつけ壁や屏風にも、幅の広軟錦が張りつけられていました。「襖」が考案された当初は、表面が絹裂地張りでした。このため「襖障子」と称され、のちに、隠蔽性の高い厚手の唐紙が伝来して障子に用いられて普及していくのですが、襖障子と唐紙障子は混同され併用されて、絹張りでない紙張り障子も襖と称されていきました。
正式の客間には、白地または襖絵が描かれたものを用い襖障子と称し、略式の居間や数寄屋風の建物には色無地や小紋柄を木版で刷った唐紙を使用し、唐紙障子と称したようです。唐紙障子の考案からやや遅れて、「明障子(あかりしょうじ)」が考案され、これが今日の障子となります。
※木枠に紙を幾重にも重ねて張ったものが襖、木枠に採光を考慮して薄紙を貼って仕上げたものを明障子
時代を経るに従い言葉が縮まり、「襖障子」「唐紙障子」の内、「障子」が脱落して「襖」「唐紙」となり、「明障子」は逆に「明」が脱落し、障子が固有名詞となり、間仕切りの総称から地位を譲ったようです。
「襖」の語源は平安時代に寝具を意味した衾(ふすま)に由来し、寝所である「衾所(ふすまどころ)」の仕切りとして用いられた事からその名で呼ばれるようになったようです。襖は俗に唐紙(からかみ)とも呼ばれますが、これは中国から渡来した唐紙を上張りした仕切り用の建具を唐紙障子と呼んでいたものが、縮めて呼ばれるようになったからです。室町時代になると、無地の布や、紙を貼ったものは襖、紋や柄があるものを唐紙と区別して読んでいたようです。構造的には現在で言う障子(明障子)と襖とは大した相違はありません。木枠に紙を幾重にも重ねて張るのが襖で、木枠に採光を考慮して薄紙を貼るだけで仕上げたものが明障子です。
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